日本が誇る天才作曲家、滝廉太郎。

 
音楽の教科書には必ずといって良いほど登場します。

 
一方でどんな人物だったか、何が凄いかまで語られることは少ないですね。

 
今回は、滝廉太郎の人柄と生い立ちなどについて記載していきます。

 

滝廉太郎の人柄は?

滝は若干23歳でなくなっており、人間的な魅力よりも音楽性や才能が語られることが多いです。

 
ただ、経歴を掘り起こしていくと、人柄の部分では探求熱心で勤勉な人だったのではないでしょうか。

 
主に下記2つの話が、滝の人柄を理解できるエピソードです。

 
・キリスト教徒
・ファエル・フォン・ケーベルを模範

 
それでは、順番に記載していきます。

21歳でキリスト教徒(クリスチャン)となる

滝は1900年10月7日、東京市麹町区(現:千代田区)の聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受け、クリスチャンとなっています。

 
理由は、滝の近くに教会があっただけでなく、音楽学校時代から研究科までの同級生・高木チカの影響があったといわれています。

 
高木チカは、後の立教大学学長・杉浦貞二郎の妻であり、自身もキリスト教徒でした。

 
また、西洋音楽はキリスト教徒と結びつきながら発展してきた過去があります。

 
今より明らかに情報が少ない明治時代の日本で、西洋音楽の本質を知るためにはキリスト教に関わる必要がありました。

 
滝が卒業した東京音楽学校(現:東京藝術大学)のクラスでは30名中20名がキリスト教徒だったともいわれています。

 
滝自身も、半年後にドイツ留学を控えたこともあり、欧州での生活を考量して決意した経緯もあったとされています。

 
つまり、滝は西洋音楽を心酔しており、さらに深く理解をするためにキリスト教に導かれた理解して間違いありません。

 
人柄の部分では、他の芸術家・音楽家同様、探求熱心で勤勉な人間であったといえます。

楽曲ではファエル・フォン・ケーベルを模範

また、滝が非常に勤勉だったであろう、もう一つの話があります。

 
滝はドイツへ留学した過去もあってか、ラファエル・フォン・ケーベルに私淑し、影響を大きく受けています。

 
ドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていることは有名です。

 
ラファエル・フォン・ケーベルは非常に日本文学を深く感じ、理解をしようと熟考したとされています。

 
観察眼には日本を見下す西洋的な傲慢さはなく、日本への愛情と理解に溢れていたそうです。

 
そんな人物の音楽性を滝が模倣しているということは、すなわち、滝自身も同じくらい西洋音楽への理解を深めようと探究心を持って取り組んだということでしょう。

 
滝は1901年4月にドイツ・ベルリンへ向かいますが、これは当時では非常に珍しいことです。

 
日本の音楽家では史上2人目のヨーロッパ留学であり、類い稀な才能に加え、前例が少ないことに挑む気概を持ち合わせていました。

滝廉太郎のの生い立ちは?

滝の生い立ちについて記載します。

 
滝は1879年8月24日、父・吉弘と、母・正子の間の長男として東京市芝区(現:東京都港区西新橋)に生まれました。

 
江戸時代の滝家は代々家老を務めるエリート武士。

 
父・吉弘は大蔵省や内務省で働き、大久保利通や伊藤博文の側近として働いていたようです。

 
滝は3歳の頃、父の都合で横浜に住むことになります。

 
当時の横浜は西洋文化の影響を受けてた街です。

 
滝の姉2人はともにアコーディオンとヴァイオリンを習っており、滝も影響を受けてヴァイオリンを弾いていました。

 
7歳で小学校入学後、家族で富山へ転勤をしますが、小学校でも毎月音楽会が開かれました。

 
滝はここでも雅楽、神楽、唱歌と音楽に触れ、感性を磨き上げていきました。

 
1890年、15歳の時に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽部)に入学し、ピアノと和声学で才能を発揮します。

 
東京音楽学校の本科専修部を首席で卒業しています。

 
滝は1898年に卒業をしていますが、それまでに「日本男児」「春の海」など4曲を作曲しています。

 
1900年には、日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲。

 
滝は全34曲を創り上げていますが、1900年から1901年にかけて一気に創作をしており、この2年で20曲以上を創作しています。

 
滝は1901年にヨーロッパ(ドイツ)へ留学に向かい、音楽の名門大学であるライプツィヒ音楽院で学び始めるのです。

 
しかし、わずか5ヶ月後に肺結核を発病。

 
ドイツの病院で療養しますが、改善はせず、1902年に帰国せざるを得ませんでした。

 
非常に残念なことに、1903年、わずが23歳で亡くなっています。

 
死後に多くの作品が焼却されたと言われており、現存するのは34曲になります。

 
最後に病床で作曲した「憾(うらみ)」はピアノ曲として高い技術を持って創作され、病により倒れた滝の無念さを伺い知ることができます。

滝廉太郎の音楽の特徴は?

滝の音楽は、日本の西洋音楽史の一歩目といわれています。

 
明治大の日本には西洋文化が一気に導入されており、音楽も例外ではありませんでした。

 
しかし、先に西洋の曲が導入され、後から日本語歌詞が付けられていたため、完成後はぎこちなさは否めませんでした。

 
日本政府は国策により西洋化を進める中で、上記の理由から日本と西洋の音楽を融合できる人物を探しており、才能ある滝の実力に脚光が浴びました。

 
滝の音楽性は、日本語歌詞を西洋音楽のメロディに合わせることに成功し、見事に日本と西洋の音楽を融合させています。

 
滝が作曲した曲は現代でも多くの人に親しまれており、日本では鉄道の発車メロディーにも使用されています。

 
また、日本だけでなく、ヨーロッパでのその音楽は親しまれています。

 
特に「荒城の月」はベルギーのある修道院では約30年前より聖歌として使われ、ドイツを代表するロックバンド・スコーピオンズがライブで歌唱したこともあります。

滝廉太郎は何がすごい?

滝は一体、何はすごいのか。

 
それは、前述した内容と重複しますが、日本語歌詞と西洋のメロディの融合にあります。

 
日本語の歌詞に違和感のない西洋のメロディを創り上げており、日本の音楽に西洋文化を取り入れることに成功したのです。

 
当時の日本にとっては、西洋の歌というのは馴染みがなく、日本語の歌詞を入れても音楽性に乏しい作品ばかりでした。

 
しかし、滝がドイツ音楽を至上とする奏法を貫いたことにより、誰も成し遂げていない、日本と西洋を良い部分を掛け合わせた音楽が完成しました。

 
現代でも「雪やこんこん」「お正月」「荒城の月」などの曲は聴くことが多く、音楽の授業でも取り扱いがあると思いますが、それほど当時の日本では大きな出来事だったのです。

まとめ

今回は、

 
●滝廉太郎の人柄は?
 
●滝廉太郎のの生い立ちは?
 
●滝廉太郎の音楽の特徴は?
 
●滝廉太郎は何がすごい?

 
これらについてまとめました。

 
以上となります。
 
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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